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	<title>真宗史学研究所 &#187; 親鸞聖人伝</title>
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	<description>浄土真宗を歴史的観点から研究：真宗史学研究所　親鸞聖人と蓮如上人の旧跡紹介</description>
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		<title>【10】六角堂参籠と「女犯の夢告」（その3）</title>
		<link>http://www.jodoshinshu.org/biography/114.html</link>
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		<pubDate>Wed, 20 Jan 2010 07:52:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

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		<description><![CDATA[《３》吉水入門のきっかけに
　前々回から書いている、この女犯の夢告に導かれて、親鸞は、吉水の法然上人のもとへ行くきっかけになったとも言われています。
　前回挙げた赤松俊秀『親鸞』・草野顕之『信の念仏者　]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>《３》吉水入門のきっかけに</h4>
<p>　前々回から書いている、この女犯の夢告に導かれて、親鸞は、吉水の法然上人のもとへ行くきっかけになったとも言われています。<br />
　前回挙げた赤松俊秀『親鸞』・草野顕之『信の念仏者　親鸞』（ともに吉川弘文館）にも少し触れられています。<br />
　次回も、恩師・法然聖人との出会いについて書きたいと思いますが、ドラマチックに描かれているのを見れば見るほど、親鸞にとってその出会いがいかに大きな意味を持つものであったのかが偲ばれます。<span id="more-114"></span></p>
<div class="serif">
<h3>〔歎徳文〕（真宗聖教全書）</h3>
<p>特に歩みを六角之精舎に運んで、百日之懇念を底す処に、親り告げを五更之孤枕に得て、数行之感涙に咽ぶ間、幸に黒谷聖人吉水之禅室に臻りて、始て弥陀覚王浄土之秘けいに入りたまいしより爾降、三経之冲微、五祖之奥さく、一流之宗旨相伝誤つこと無う、二門之教相稟承由有り。</p>
<h3>[最須敬重絵詞]</h3>
<p>六角堂へ百日の参詣をいたしたまいて、ねがわくは有縁の要法をしめし、真の知識にあうことをえしめたまえと、丹誠を抽で祈給に、九十九日に満する夜の夢に、末代出離の要路念仏にはしかず、法然聖人いま苦海を度す、かの所に到て要津を問べきよし慥に示現あり。すなわち感涙をのごい、霊告に任て吉水の禅室にのぞみ</p>
<h3>[親鸞聖人御因縁]</h3>
<p>六角道の救世菩薩をたのみたてまつり、一七日参籠したりし示現にまかせて、御弟子にまいりたれども</p>
<h3>[親鸞聖人御因縁秘伝鈔]</h3>
<p>大師聖人のたまわく、（中略）そもそも当年なつのはじめ、善信房の来臨ありしは、これわたくしの意楽にあらず。六角堂の大士救世観音の御指南なり。かの御夢想のつげにまかせて、かつは弘法利生のため、殿下の御定にしたがいて、在家修行の法頭となりたまうべし。（中略）善信かさねてもうしたまわく、上宮救世の御利生によりて、聖人の御門徒に参ずる条は勿論</p>
<h3>[しんらんき]</h3>
<p>ぜんしんゆめさめかつはとおき給い、さまざまらいはいなされ、それよりもおぼしめすしさい有とて、くろだにさしてぞいそぎ給う。程なくくろだにになりしかば、ほうねん上人へ御たいめん有</p>
<h3>[親鸞聖人由来]</h3>
<p>六かくどうに参て（中略）七日こもり給いて、くわんおんのれいむをまたせ給う処に、まんする夜くわんをんははくれんげにのり、ろうそうと身をへんじ、はんえんにむかってのたまわく、これよりくろ谷にほうねん上人とてたっときねんぶつのひじりあり、かれへ参弟子となり、していともに念仏を日本こくへひろむべし、ぎょうじゃしゅくほうせつにょぼん、可上玉女心非品、一生志見能生ごん、りんじゅういん道正極楽と、此もんをとなえ、けすがとごくに失給う。</p>
<h3>[絵伝撮要]</h3>
<p>上人六角堂観音の御示現に依て、往生の安心を決定し給うことを云うに、上人二十九歳にして隠遯の御心にひかれ給いて、六角堂に参籠し、救世菩薩の御示現に任せて吉水に到り</p>
<h3>[非正統伝]</h3>
<p>渋谷家には六角堂百日参籠の内、建仁元年辛酉四月五日救世菩薩の霊告ありて、四句の偈文を授て源空上人の庵室に至て、要津をたづぬべきよし示したまう</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>【09】六角堂参籠と「女犯の夢告」（その2）</title>
		<link>http://www.jodoshinshu.org/biography/111.html</link>
		<comments>http://www.jodoshinshu.org/biography/111.html#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 22 Dec 2009 08:18:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.jodoshinshu.org/?p=111</guid>
		<description><![CDATA[《２》六角堂参籠はいつ?
　親鸞の伝記として、まず第一に挙げられる「親鸞伝絵」には、いくつかの異本が存在します。
　六角堂で夢告を受けたのは、いつのことだったのか、この異本の中でも記述が分かれているため、]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>《２》六角堂参籠はいつ?</h4>
<p>　親鸞の伝記として、まず第一に挙げられる「親鸞伝絵」には、いくつかの異本が存在します。<br />
　六角堂で夢告を受けたのは、いつのことだったのか、この異本の中でも記述が分かれているため、議論があります。<span id="more-111"></span></p>
<p>　下に掲げた史料の中でも、<br />
建仁元年……親鸞聖人正統伝、親鸞聖人正明伝<br />
建仁３年……本願寺聖人親鸞伝絵、絵伝撮要<br />
と、分かれています。<br />
　特に「絵伝撮要」では、建仁元年説は誤りで、建仁3年が正しいのだと、理由をつけて、説明しています。<br />
　対して高田派の『正統伝』『正明伝』では、六角堂への100日の参籠の最中に、安居院聖覚法印と出会い、3月14日、吉水に入門したことになっています。そして、まだ100日を満たしていなかったので参詣を続け、4月5日に夢告があったという説を採っています。</p>
<p>　そもそも、女犯の夢告は、吉水入室前の六角堂参籠時のことなのか、それとも法然門下の一員となった後に、再度六角堂に籠もった時なのかも、争われています。</p>
<p>　果たして、建仁元年なのか、建仁3年なのか。<br />
　この論争について詳しくは、赤松俊秀『親鸞』（人物叢書、吉川弘文館）や、草野顕之『信の念仏者　親鸞』（吉川弘文館）に書かれています。これらでは、女犯の夢告は吉水入室の前に六角堂に参籠した時、建仁元年の出来事であろうという結論が出ています。</p>
<div class="serif">
<h3>〔本願寺聖人親鸞伝絵〕（真宗聖教全書）</h3>
<p>建仁三年（癸亥）四月五日の夜寅の時、上人夢想の告ましましき。かの記にいわく、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を著服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命してのたまわく、行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽といえり。救世菩薩、善信にのたまわく、これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべしと云云。爾時善信夢の中にありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨峨たる岳山あり。その高山に数千万億の有情、群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、此文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して、説きかしめ畢とおぼえて、夢さめ畢ぬと云云。</p>
<h3>[絵伝撮要]</h3>
<p>上人六角堂観音の御示現に依て、往生の安心を決定し給うことを云うに、上人二十九歳にして隠遯の御心にひかれ給いて、六角堂に参籠し、救世菩薩の御示現に任せて吉水に到り、三年を経て往生の安心を証得し、飽まで決定の信心に住し給うこと、偏に観音の御示誨ゆえぞと、且は恩礼報謝の為め、且は往生決定の喜ばしさに、又重て建仁三年癸亥四月五日六角堂へ参詣ありて、其夜そこに通夜し給うに、五更寅の一天に観音宝殿の扉を押し開き、聖僧端正の形を現し、白衲の袈裟を着し、広大の白蓮華に坐して、上人の枕の上りに来り、告て宣く、行者宿報設女犯我成玉女身被犯一生之間能荘厳臨終引導生極楽（已上四句偈）。汝たしかに聞け、此れは是れ我が誓願なり。我が誓願と云は、仏道修行の者もし真実の信あらば、必ず我れ生々に随身して、さまざまの形を現じ、其の行者の意楽に随て、仏道修業を増進せしめんと思う誓願なり。汝その本人となりて、能く我が誓願の意趣を会得して、其旨を一切の衆生に説き聴すべしとの御示現により、夢の中に堂の東面を見給うに、数万の衆生の中に、或は甲冑を帯せるもあり、或は手に刀仗を持もあり、僧俗男女貴賤貧富の者幾千万と云う員を知らず。上人此等の人に向て彼の偈文を説き聴せ給うに、諸人歓喜踊躍して、信受奉行すと見て夢覚給いぬと云云。之に就てたちかえって此の段を料簡するに、此の六角堂の御夢想の偈文を前の建仁元年百日参籠の時と云うは誤なり。此れはそれより後三年に当て上人三十一歳の御時の事なり。又此の御夢に就て、吉水の禅室に在しての夢想と云う一説あり。又は往生浄土の安心領解の喜ばしさ、又是れ偏に救世の御示現の故なりと、うれしさのあまり御参詣通夜し給う夜の夢と云う説あり。いぞれも其説くるしからず。然れども後の説よろしきに似たり。</p>
<h3>[親鸞聖人正統伝]</h3>
<p>二十九歳正月（中略）十日、山門の大乗院に隠れ、大誓願を発し、京都六角精舎如意輪観自在尊に一百日の懇念をつくし其日より毎日参籠したまう。（中略）<br />
二十九歳三月十四日、既に空師の門下に入りたまえども、六角精舎へ百日の懇誓いまだ満ざれば、怠らず毎日参詣したまう。結願は四月下旬の初なり。爰に四月五日の夜、参籠の時五更に至て夢想の告命あり。<br />
聖人御真筆愚禿親鸞夢想記曰<br />
六角堂の救世菩薩、顔容端政の僧形を示現し、白衲の御袈裟を服着せしめ、広大の白蓮華に端座し、善信に告命して言く、<br />
　行者宿報設女犯　　我成玉女身被犯<br />
　一生之間能荘厳　　臨終引導生極楽<br />
救世菩薩此文を誦して言く、此文は吾誓願なり、一切群生に説き聞かすべしと告命す、斯告命に因て、数千万の有情にこれを聞かしむと覚はて、夢悟めおわりぬ、已上記文</p>
<h3>[親鸞聖人正明伝]</h3>
<p>二十九歳、建仁元年辛酉正月十日辛酉のひ睿南の大乗院にかくれ大誓願を発し、京都六角の精舎如意輪観音に一百日の参籠あり。（中略）<br />
建仁辛酉三月十四日、既に空師の門下に入たまえども、六角精舎へ百日の参籠いまだ満ざれば、怠なく毎日まいりたまう。殊に建久九年の春、功徳天女の告ありしも、いまだ不審はれざるを以なり。果して今年四月五日甲申の夜、五更に及で、霊夢を蒙たまいき。彼夢想の記文を拝するに、六角堂の救世菩薩顔容端厳の聖僧の貌を現じたまい、白衲の袈裟を著服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命して宣わく。<br />
　行者宿報設女犯　　我成玉女身被犯<br />
　一生之間能荘厳　　臨終引導生極楽<br />
救世菩薩この文を誦して宣わく、是我誓願なり、善信この文の意を一切群生に説聞しむべしと云云。是時善信、告命の如に数千万の有情にこれを聞しむると覚て、夢さめおわりぬと云云。
</p></div>
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		<title>【08】六角堂参籠と「女犯の夢告」</title>
		<link>http://www.jodoshinshu.org/biography/95.html</link>
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		<pubDate>Thu, 17 Sep 2009 07:03:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

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		<description><![CDATA[
　比叡の山を下りた親鸞は、真っ先に、京都の「六角堂」へ参籠します。
　六角堂へ100日の参籠の後に、法然門下へ馳せ参じたと言われています。
　このことは、下に列記しましたように、数々の伝記に載せられており、]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a rel="lightbox[08rokkaku]" href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2009/09/e585ade8a792e5a08204.jpg"><img src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2009/09/e585ade8a792e5a08204-150x150.jpg" alt="" title="六角堂04" width="150" height="150" class="alignnone size-thumbnail wp-image-104" /></a><a rel="lightbox[08rokkaku]" href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2009/09/e585ade8a792e5a08205.jpg"><img src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2009/09/e585ade8a792e5a08205-150x150.jpg" alt="" title="六角堂05" width="150" height="150" class="alignnone size-thumbnail wp-image-106" /></a><a rel="lightbox[08rokkaku]" href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2009/09/e585ade8a792e5a08207.jpg"><img src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2009/09/e585ade8a792e5a08207-150x150.jpg" alt="" title="六角堂07" width="150" height="150" class="alignnone size-thumbnail wp-image-108" /></a></p>
<p>　比叡の山を下りた親鸞は、真っ先に、京都の「六角堂」へ参籠します。<br />
　六角堂へ100日の参籠の後に、法然門下へ馳せ参じたと言われています。<br />
　このことは、下に列記しましたように、数々の伝記に載せられており、内室・恵信尼の手紙にも書かれています。</p>
<p>　この時に、有名な「女犯の夢告」があったといわれています。<br />
　大事な点がいくつかありますので、複数回に分けて書いてみたいと思います。<span id="more-95"></span></p>
<h4>《１》女犯の夢告について</h4>
<p>　六角堂は聖徳太子の建立になるといわれています。<br />
（紫雲山頂法寺という寺院です）<br />
　その本尊の救世観音に、親鸞は救われる道を必死に尋ねました。<br />
　磯長の夢告で聖徳太子から、「おまえの命はあと10年」と告げられてから、ちょうど10年。決死の祈願は100日間続きました。その95日めの夜明け、救世観音が顔かたちを整え、立派な僧の姿を現しました。そして親鸞に、こう告げたのです。</p>
<blockquote><p><strong>　行者宿報設女犯<br />
　我成玉女身被犯<br />
　一生之間能荘厳<br />
　臨終引導生極楽</strong></p></blockquote>
<p><strong>「そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私（観音）が玉女という女の姿となって、肉体の交わりを受けよう。そしておまえの一生を立派に飾り、臨終には引き導いて、極楽に生まれさせよう。これは私の誓願である。すべての人に説き聞かせなさい」</strong></p>
<p>　その時、親鸞が東方に目を向けると、険しい山々に数千万の人々が集まっていました。それらの人に救世観音の言葉を話したところで夢から覚めたと、親鸞は記したといわれています。<br />
　これは「女犯の夢告」とか、「救世観音の夢告」と呼ばれています。</p>
<p>　それまでの仏教には、僧侶は一切女性に近づいてはならないという、厳しい戒律がありました。しかし、色と欲から生まれた人間が、色と欲から離れ切れるでしょうか。この矛盾に悶え苦しんでいた親鸞が、「もしおまえが女性と交わる時は、私（観音）が女となってあげましょう」と告げられたのでした。<br />
　これは男も女も、すべての人間がありのままの姿で救われる、阿弥陀仏の絶対の救済のあることを教えた夢と理解することができます。赤山禅院で美しい女性に会ってからの煩悶と、この夢告がきっかけとなり、親鸞は後に肉食妻帯を決意したのです。</p>
<div class="serif">
<h3>[恵信尼書状]</h3>
<p>やまをいでて、六かくどうに百日こもらせ給て、ごせをいのらせ給けるに、九十五日のあか月、しょうとくたいしのもんをむすびて、じげんにあずからせ給て候ければ</p>
<h3>〔本願寺聖人親鸞伝絵〕（真宗聖教全書）</h3>
<p>建仁三年（癸亥）四月五日の夜寅の時、上人夢想の告ましましき。かの記にいわく、六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を著服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命してのたまわく、行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽といえり。救世菩薩、善信にのたまわく、これはこれわが誓願なり。善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべしと云云。爾時善信夢の中にありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨峨たる岳山あり。その高山に数千万億の有情、群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、此文のこころを、かの山にあつまれる有情に対して、説きかしめ畢とおぼえて、夢さめ畢ぬと云云。</p>
<h3>〔歎徳文〕（真宗聖教全書）</h3>
<p>特に歩みを六角之精舎に運んで、百日之懇念を底す処に、親り告げを五更之孤枕に得て、数行之感涙に咽ぶ間、幸に黒谷聖人吉水之禅室に臻りて、始て弥陀覚王浄土之秘けいに入りたまいしより爾降、三経之冲微、五祖之奥さく、一流之宗旨相伝誤つこと無う、二門之教相稟承由有り。</p>
<h3>[絵伝撮要]</h3>
<p>上人六角堂観音の御示現に依て、往生の安心を決定し給うことを云うに、上人二十九歳にして隠遯の御心にひかれ給いて、六角堂に参籠し、救世菩薩の御示現に任せて吉水に到り、三年を経て往生の安心を証得し、飽まで決定の信心に住し給うこと、偏に観音の御示誨ゆえぞと、且は恩礼報謝の為め、且は往生決定の喜ばしさに、又重て建仁三年癸亥四月五日六角堂へ参詣ありて、其夜そこに通夜し給うに、五更寅の一天に観音宝殿の扉を押し開き、聖僧端正の形を現し、白衲の袈裟を着し、広大の白蓮華に坐して、上人の枕の上りに来り、告て宣く、行者宿報設女犯我成玉女身被犯一生之間能荘厳臨終引導生極楽（已上四句偈）。汝たしかに聞け、此れは是れ我が誓願なり。我が誓願と云は、仏道修行の者もし真実の信あらば、必ず我れ生々に随身して、さまざまの形を現じ、其の行者の意楽に随て、仏道修業を増進せしめんと思う誓願なり。汝その本人となりて、能く我が誓願の意趣を会得して、其旨を一切の衆生に説き聴すべしとの御示現により、夢の中に堂の東面を見給うに、数万の衆生の中に、或は甲冑を帯せるもあり、或は手に刀仗を持もあり、僧俗男女貴賤貧富の者幾千万と云う員を知らず。上人此等の人に向て彼の偈文を説き聴せ給うに、諸人歓喜踊躍して、信受奉行すと見て夢覚給いぬと云云。之に就てたちかえって此の段を料簡するに、此の六角堂の御夢想の偈文を前の建仁元年百日参籠の時と云うは誤なり。此れはそれより後三年に当て上人三十一歳の御時の事なり。又此の御夢に就て、吉水の禅室に在しての夢想と云う一説あり。又は往生浄土の安心領解の喜ばしさ、又是れ偏に救世の御示現の故なりと、うれしさのあまり御参詣通夜し給う夜の夢と云う説あり。いぞれも其説くるしからず。然れども後の説よろしきに似たり。</p>
<h3>[しんらんき]</h3>
<p>六かくどうへ参らせ給い、しずかにかんねんし給い、よもすがらこもられける、あらふしぎやまんずるあかつきかたの事成に、かんぜおんびゃくのうの御けさをちゃくぶくあってぜんしんの御ぼうのまくらかみに立せ給い、有がたくも四くのもんをぞさずけ給う。ぎょじゃしゅくほうせつにょぼん、がじょうぎょくにょしんぴぼん、一しょうしけんのうしょうごん、りんじゅういんどうしょうごくらく、是わがせいがん也、一さいのしゅじょうにとききかしむべし、とかんぜおんけすがごとくにうせ給う。ぜんしんゆめさめかつはとおき給い、さまざまらいはいなされ、それよりもおぼしめすしさい有とて、くろだににさしてぞいそぎ給う。程なくくろだにになりしかば、ほうねん上人へ御たいめん有</p>
<h3>[親鸞聖人正統伝]</h3>
<p>二十九歳正月（中略）十日、山門の大乗院に隠れ、大誓願を発し、京都六角精舎如意輪観自在尊に一百日の懇念をつくし其日より毎日参籠したまう。（中略）<br />
二十九歳三月十四日、既に空師の門下に入りたまえども、六角精舎へ百日の懇誓いまだ満ざれば、怠らず毎日参詣したまう。結願は四月下旬の初なり。爰に四月五日の夜、参籠の時五更に至て夢想の告命あり。<br />
聖人御真筆愚禿親鸞夢想記曰<br />
六角堂の救世菩薩、顔容端政の僧形を示現し、白衲の御袈裟を服着せしめ、広大の白蓮華に端座し、善信に告命して言く、<br />
　行者宿報設女犯　　我成玉女身被犯<br />
　一生之間能荘厳　　臨終引導生極楽<br />
救世菩薩此文を誦して言く、此文は吾誓願なり、一切群生に説き聞かすべしと告命す、斯告命に因て、数千万の有情にこれを聞かしむと覚はて、夢悟めおわりぬ、已上記文</p>
<h3>[親鸞聖人正明伝]</h3>
<p>二十九歳、建仁元年辛酉正月十日辛酉のひ睿南の大乗院にかくれ大誓願を発し、京都六角の精舎如意輪観音に一百日の参籠あり。（中略）<br />
建仁辛酉三月十四日、既に空師の門下に入たまえども、六角精舎へ百日の参籠いまだ満ざれば、怠なく毎日まいりたまう。殊に建久九年の春、功徳天女の告ありしも、いまだ不審はれざるを以なり。果して今年四月五日甲申の夜、五更に及で、霊夢を蒙たまいき。彼夢想の記文を拝するに、六角堂の救世菩薩顔容端厳の聖僧の貌を現じたまい、白衲の袈裟を著服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命して宣わく。<br />
　行者宿報設女犯　　我成玉女身被犯<br />
　一生之間能荘厳　　臨終引導生極楽<br />
救世菩薩この文を誦して宣わく、是我誓願なり、善信この文の意を一切群生に説聞しむべしと云云。是時善信、告命の如に数千万の有情にこれを聞しむると覚て、夢さめおわりぬと云云。
</p></div>
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		<title>【07】比叡下山</title>
		<link>http://www.jodoshinshu.org/biography/92.html</link>
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		<pubDate>Tue, 08 Sep 2009 10:22:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

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		<description><![CDATA[　親鸞は、比叡山での20年におよぶ修行でも魂の解決ができず、精も根も尽き果ててしまいます。ついに29歳の春、天台宗の教えに絶望し、下山を決意します。
　大乗院の夢告の翌年、正治3年＝建仁元年（1201）にあたります。
　]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　親鸞は、比叡山での20年におよぶ修行でも魂の解決ができず、精も根も尽き果ててしまいます。ついに29歳の春、天台宗の教えに絶望し、下山を決意します。<br />
　大乗院の夢告の翌年、正治3年＝建仁元年（1201）にあたります。<br />
　その時の苦悩が、『歎徳文』に記されています。<span id="more-92"></span></p>
<p>　静寂な夜、修行に励む親鸞が比叡の山上から見下ろす琵琶湖は、鏡のようでした。<br />
「ああ、あの湖水のように、私の心はなぜ静まらないのか。静めようとすればするほど散り乱れる」<br />
　思ってはならないことが、ふーっと思えてくる。考えてはならないことが、ふーっと浮かんでくる。どうしてこんなに、欲や怒りが逆巻くのか。自分の心でありながら、どうにもならない心に親鸞は苦しみます。涙に曇った眼を天上に移すと、月はこうこうと冴えている。<br />
「どうして、あの月のようにさとりの月が拝めないのか。次々と煩悩の群雲で、さとりの月を隠してしまう。こんな暗い心のままで、死んでいかねばならぬのか。このままでは地獄だ。この一大事、どうしたら解決できるのか……」</p>
<p>「後生暗い心」の解決を求め、必死に修行を重ねてきた比叡を下りる時のつらさは、いかばかりであったでしょうか。<br />
　ただひたすら、この一大事の解決一つを目的として、新たな道を歩み始めたのでした。</p>
<div class="serif">
<h3>〔歎徳文〕</h3>
<p>定水を凝らすと雖も識浪頻りに動き、心月を観ずと雖も妄雲猶覆う。しかるに一息追がざれば千載に長く往く、何ぞ浮生の交衆を貪りて、徒に仮名の修学に疲れん、須らく勢利を抛って直ちに出離をねがうべし。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>【06】大乗院の夢告</title>
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		<pubDate>Sat, 29 Nov 2008 00:42:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

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		<description><![CDATA[
磯長の夢告から9年たった、正治2年（1200）、親鸞は比叡山無動寺の大乗院に籠もりきるようになりました。
「おまえの命はあと10年」と宣告されてから、間もなく10年。目前に迫った一大事の後生に懊悩し、ひたすら夢告の文を唱]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a rel="lightbox" href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/11/daijoin1.jpg"><img src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/11/daijoin1-150x150.jpg" alt="" title="大乗院" width="150" height="150" class="alignnone size-thumbnail wp-image-81" /></a><br clear="all" /><br />
磯長の夢告から9年たった、正治2年（1200）、親鸞は比叡山無動寺の大乗院に籠もりきるようになりました。<br />
「おまえの命はあと10年」と宣告されてから、間もなく10年。目前に迫った一大事の後生に懊悩し、ひたすら夢告の文を唱えて解決の道を求めます。<br />
すると、結願の前夜真夜中、如意輪観音が現れて、<br />
「善いかな善いかな、汝が願い、将に満足せんとす。善いかな善いかな、我が願い、亦満足す」<br />
と告げたと伝えられています。<br />
これを「大乗院の夢告」といわれています。<span id="more-80"></span></p>
<div class="serif">
<h3>[親鸞聖人正統伝]</h3>
<p>同年（28歳）十二月上旬、叡南無動寺の大乗院に閉籠して、密行を修せらる。然ども、何の行法にや、とかく人にも逢たまわず、室内をも見せられず、御給仕は正全坊侍従ばかりなり。正全あまり不審に思い、或夜よもすがら不寝、椙戸に耳をあてて、其様を窺けるに、孤燈かすかにして西南に向い、趺坐し、合掌を額にあてて一心に、我三尊化塵沙界、日域大乗相応地、諦聴諦聴我教令、汝命根応十余歳、命終速入清浄土、善信善信真菩薩の偈文を唱て、悲泣雨涙したまう。其丹誠金鉄をも透徹すべく、御声も哀に悲しかりけり。折ふし、師の僧正より聖光院の坊官、木幡民部を密行の御みまいに登したまう。民部、下山の時、正全門外まで送て云よう、穴賢、僧正へは努々申たまうまじ。此度の密行の事、全く別意にあらず。唯今年は御遷化と思召きわめられたると見えたりと、泣々語る。民部、忙然として其ゆえを問う。さればとよ、是までは深つつみて口外せざれども、今は申ぞかしとて、過ぎにし十九歳、九月、河州磯長御廟にて示現の事とも、又此度密行のありさま、御誦文等まで、委くかたりければ、民部も手を拍、このすえはいかに成ゆく世ならんとぞ歎きける。然ども、僧正へは唯何となく、御返事のみぞ申てやみぬ。別行は三七日にて結願也。其前夜、四更に及ころおい、室内に異光みち、如意輪観自在の像影現し、<br />
　善哉善哉汝願将満足　善哉善哉我願亦満足<br />
と和訓に唱て、忽然として隠れたまう。是由縁によりてこそ、明る歳六角精舎へ百日の懇念を尽されける。</p>
<h3>[親鸞聖人正明伝]</h3>
<p>同（28歳）冬、睿南無動寺大乗院に閉籠て、密行を修せらる。是も三七日なりしが、結願の前夜、四更に及で、室中に異香薫じ、如意輪観音自在薩■（土偏に垂）現来したまいて、汝所願まさに満足せんとす、我願も亦満足す、とある告を得て、歓喜の涙にむせびたまう。是によて明年正月より六角精舎へ一百日の日参をおもいたちたまえり。
</p></div>
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		<title>【05】磯長の夢告</title>
		<link>http://www.jodoshinshu.org/biography/76.html</link>
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		<pubDate>Fri, 07 Nov 2008 08:08:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

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		<description><![CDATA[　建久2年（1191）、親鸞19歳の時、大阪の磯長というところにあった聖徳太子廟に3日参籠したことが伝えられています。
（磯長村は昭和31年に合併して、太子町となりました）
　親鸞が聖徳太子を崇敬していたことは、よく知られ]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　建久2年（1191）、親鸞19歳の時、大阪の磯長というところにあった聖徳太子廟に3日参籠したことが伝えられています。<br />
（磯長村は昭和31年に合併して、太子町となりました）<br />
　親鸞が聖徳太子を崇敬していたことは、よく知られていますが、このときも、「後生暗い心」の解決を求めて、三日三晩、祈り念じ続けたのでした。<br />
　2日目の真夜中、聖徳太子が石戸を開いて現れ、次のような言葉を告げます。<span id="more-76"></span></p>
<blockquote><p><strong>「我が三尊は塵沙界を化す。日域は大乗相応の地なり。諦らかに聴け、諦らかに聴け、我が教令を。<br />
　汝が命根は、まさに十余歳なるべし。命終わりて速やかに清浄土に入らん。善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を」</strong><br />
（阿弥陀仏は、すべての者を救わんと、力尽くされている。日本は、真実の仏法が花開く、ふさわしい所である。よく聴きなさい、よく聴きなさい、私の言うことを。そなたの命は、あと、十年なるぞ。命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう。よく信じなさい、深く信じなさい、真の菩薩を）</p></blockquote>
<p>　19歳の親鸞が、ここで最も深刻に受けとめた所は、「おまえの命は、あと10年であろう」という予告であったことは、想像に難くありません。<br />
　そして「命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう」という夢告の意味も、全く理解できなかったでしょう。<br />
　最後に「だからおまえは、今こそ本当の菩薩を心から信じなさい。深く信じなさい」と言われても、本当の菩薩とは誰なのか、どこにましますのか、親鸞の謎は深まる一方でした。<br />
　これらの謎が一度に解けたのは、夢告から10年後でした。親鸞は29歳のとき、京都で法然と出会い、「阿弥陀仏の本願」を聞くようになります。その阿弥陀仏の本願によって絶対の幸福に救われた時、親鸞の疑問はすべて氷解したのです。<br />
　またこの夢告によって親鸞は、法然のもとに入門後、「善信」と名乗るようになったともいわれています。</p>
<p>〈現在の聖徳太子廟〉（太子町観光情報）<br />
<a href="http://www.town.taishi.osaka.jp/sightseeing/rekishi/rekishi05.html" target="_blank">http://www.town.taishi.osaka.jp/sightseeing/rekishi/rekishi05.html</a></p>
<div class="serif">
<h3>[親鸞聖人正統伝]</h3>
<p>十九歳初秋、慈円僧正に御いとまを乞て、和州法隆寺へ御参詣あり。覚運僧都の坊に、六十余日ましまし、因明の秘奥を研究したまえり。供奉の僧は、正全房侍従也、是人は養父範綱卿より御介錯に附られたる人也。<br />
同年九月十二日、河州石川郡東条磯長聖徳太子の御廟へ参詣ましまし、十三日より十五日まで三日御参籠なり。第二の夜夢想を蒙りたまう。十五日正午に件の記を書さる。其記文曰、爰少仏子範宴、入胎五松の夢を思い、常に垂迹の利生を仰ぐ、今幸に御廟窟に詣でて、三日参籠懇念失巳矣、第二夜四更、夢の如く幻の如く、聖徳太子廟内より自ら石戸を発いて、光明赫然而窟中を照らし、別に三満月在して金赤の相を現し告勅して言く<br />
　　我三尊化塵沙界　日域大乗相応地<br />
　　諦聴諦聴我教令　汝命根応十余歳<br />
　　命終速入清浄土　善信善信真菩薩<br />
于時、建久二年辛亥暮秋中旬第五日、午時初刻、記前夜告令畢、仏子範宴<br />
此告命を得たまえども、深秘して口外なし。唯正全房ばかり、其記文を書たまうを見る。然るに汝命根応十余歳の文意さとし難く思召けり。範宴いま十九歳なれば、今年までの寿限と云ことにや、又今より十余歳との義にや、猶予ましますも断なり。其後二十九歳に至て、浄土真門に入たまう上にて、当初の告令に十余歳に至て清浄国土に入んとは、今此時を示されけるよと、日来の義蒙を晴たまいけり。三十三歳以後善信となのりたまうも、其本原この告命より興れり。</p>
<h3>[親鸞聖人正明伝]</h3>
<p>建久二年辛亥（十九歳）七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申たまいしかば、許されやがて立越て、西園院覚運僧都の坊に七旬ばかりましまして、因明の御学問あり。幸のついでなりとて、九月十日あまりに河内国磯長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至まで、三日三夜こもりて、重重の御祈願あり。十四日の夜まのあたりに霊告まします。御自筆記文曰<br />
爰仏子範宴、入胎五松の夢を思い、常に垂迹の利生を仰ぐ、今幸に御廟窟に詣でて、三日参籠懇念己を失る矣。第二夜四更夢の如く幻の如く聖徳太子廟内より自ら石戸を発いて、光明赫然而窟中を照らす。別に三満月在して金赤の相を現し告勅言<br />
　　我三尊化塵沙界　日域大乗相応地　諦聴諦聴我教令<br />
　　汝命根応十余歳　命終速入清浄土　善信善信真菩薩<br />
于時建久二年辛亥暮秋中旬第五日午時、前夜の告令を記し畢んぬ、仏子範宴
</p></div>
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		<title>【04】不思議な女性との出会い</title>
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		<pubDate>Tue, 26 Aug 2008 10:30:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

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		<description><![CDATA[

親鸞が比叡山で修行に励んでいたころ、麓の赤山明神にて、不思議な女性との出会いがあったと伝えられています。
赤山明神は、正式名称は「赤山禅院」といい、延暦寺の塔頭ではありますが、都を守る“神社”でもあ]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a rel="lightbox[04sekizan] href=" href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/08/01.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-74" title="赤山明神01" src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/08/01-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a><a rel="lightbox[04sekizan] href=" href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/08/02.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-75" title="赤山明神02" src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/08/02-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a><br />
<br clear="all" /></p>
<p>親鸞が比叡山で修行に励んでいたころ、麓の赤山明神にて、不思議な女性との出会いがあったと伝えられています。<br />
赤山明神は、正式名称は「赤山禅院」といい、延暦寺の塔頭ではありますが、都を守る“神社”でもあります。神仏習合の様相を見せています。</p>
<p>建久9年（1198）、親鸞26歳のころです。<br />
年始の所用を済ませ、山に帰ろうとする親鸞が、赤山禅院の前で、美しい女性に声をかけられます。<span id="more-73"></span><br />
「どうか、山にお連れください」と願う女性に対し、親鸞は、<br />
「それは無理です。あなたもご存じのとおり、このお山は伝教大師が開かれてより、女人禁制の山です。とても、お連れすることはできません」<br />
と断ります。<br />
すると、女性はあきらめるかと思いきや、意外な言葉を口にします。<br />
「伝教大師ほどの方が、『一切衆生　悉有仏性』の経文を読まれたことはなかったのでしょうか」<br />
驚く親鸞に、女性はたたみかけるように、<br />
「親鸞さま。このお山には、鳥や獣のメスはいないのでしょうか。汚れたメスが入ると、山が汚れるといわれるならば、すでに鳥や獣のメスで、この山は汚れています。鳥や獣のメスがいる山へ、なぜ人間のメスだけが、入ってはならないのでしょうか」<br />
仏教では、人間も牛も豚も、犬、猫、虫けらに至るまで、すべての生命は平等だと教えられている。だから動物のメスと人間の女性を差別して、人間の女だけ汚れているとする比叡山は、仏教の精神に反すると、指摘しているのです。</p>
<p>僧侶として、初めて、公然と肉食妻帯に踏み切ったことで、親鸞は有名です。<br />
それには、「女性は穢れているから、登ることは許されない」比叡山に、「鳥獣畜類」の女はたくさんいるじゃないか、という矛盾をついた、この女性の鋭い問いかけに対して、すべての人がありのままで救われる真実の仏法を明らかにする、という意味があったのでしょう。</p>
<div class="serif">
<h3>[親鸞聖人正明伝]</h3>
<p>建久九年、範宴初春の祝儀ごとおわりて、京より山へ帰たまうに、おりふし赤山明神へまいり、法施ごころしずかにしておわしますに、神籬の蔭よりあやしげなる女姓、柳裏の五衣にねりぬきの二重なるを打被、唯一人出来れり。其しな気高て、いかさま大内に住けんありさまに見けり。彼女姓いとはしたなく範宴の御傍ちかくまいりて云よう、御僧は何より何地へ行かせたまうと。御供にありける相模侍従、これは京より山へかえるにてさぶらう。女の云く、妾も年来比叡山へ参詣の志ふかくありしが、今日思立てさぶらう。初ての所なれば、案内もいささか知はべらず。一樹のかげ、一河のながれとやらん申こともありときく。今日の御なさけに、いざ連て登たまわりそうらへ、と染染と申けり。範宴も興さめて、女姓なれば其事は知たまわじ。抑、我比叡山は、舎那円頓の峯高そびえ、五障の雲の晴ざる人は登ことを許さず。止観三密の谷深裂て、三従の霞に迷う輩は入ことを得ず。法華経にも、女人は垢穢にして、仏法の器に非と説たまえり。されば山家大師の結界の地と定たまうもことわりなり。浦山しくも登華かなと読し歌をもしろしめされなん。唯是よりかえらるべし、とのたまえば、女性範宴の御衣にすがり、涙の中に申けるは、さてさてちからなき仰をも聞ものかな。伝教ほむの智者なんぞ一切衆生悉有仏性の経文を見たまわざるや。そもそも男女は人畜によるべからず。若この山に鳥獣畜類にいたるまで、女と云ものは棲ざるやらん。円頓の中に女人ばかりを除かれなば、実の円頓にあらざるべし。十界十如の止観も、男子に限とならば、十界皆成は成ずべからず。法華経に女人非器とは説ながら、龍女が成仏は許されたり。胎蔵四曼の中にも、天女を嫌うことなく、三世の仏にも四部の弟子は有ぞかし。さはありながら、結界の峯ならば登べきに、便なし。妾山にのぼらば、知識をたずねて捧とて、持る物あり。今はよしなし。是を師にたてまつるべし、とて袖より白絹に包たる物を出し、是は天日の火を取の玉なり。それ一天四海のうち、日輪より高く尊ものなく、又土石より低く陋ものなし。然に、天日の火ひとり下て、灯炬となることなし。陋土石の玉にうつりてこそ、闇夜を照の財とは成なれ。仏法の高根の水、ただ峯に後のみ湛て、何の徳用あらん。低く陋き谷に降てこそ、万機を潤す功はあむなれ。御僧は末代の智人なるべし。よも此理に迷たまわじ。</p>
</div>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>【03】出家</title>
		<link>http://www.jodoshinshu.org/biography/64.html</link>
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		<pubDate>Tue, 17 Jun 2008 07:35:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.jodoshinshu.org/?p=64</guid>
		<description><![CDATA[

幼くして、両親と別れる悲しみに沈んでいた親鸞は、9歳の時、出家を決意します。
そして、青蓮院の慈鎮和尚（慈円）を訪ね、得度したと伝えられています。
その際に詠んだといわれているのが、「明日ありと思う心]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a rel="lightbox[03shukke]" href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/06/03-01.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-67" title="明日ありと思う心のあだ桜　夜半に嵐の吹かぬものかは" src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/06/03-01-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a><a rel="lightbox[03shukke]" href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/06/03-02.jpg"><img class="alignleft size-thumbnail wp-image-66" title="日野誕生院02" src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/06/03-02-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a><br />
<br clear="all" /></p>
<p>幼くして、両親と別れる悲しみに沈んでいた親鸞は、9歳の時、出家を決意します。<br />
そして、青蓮院の慈鎮和尚（慈円）を訪ね、得度したと伝えられています。<br />
その際に詠んだといわれているのが、「明日ありと思う心のあだ桜　夜半に嵐の吹かぬものかは」の歌です。<br />
“今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日と言わず、どうか今日、得度していただけないでしょうか”<span id="more-64"></span></p>
<p>仏教の目的は、「後生暗い心」の解決です。<br />
人は死ねばどうなるのか。後生（死んだ後）は有るのか、無いのか、どうなっているのやら、さっぱり分かっていない、お先真っ暗な状態。この「死んだらどうなるか分からない心」を、「後生暗い心」といいます。<br />
両親と別れ、今度死ぬのは自分の番だと驚き、この暗い心の解決を求め、比叡山に入ったのでした。</p>
<div class="serif">
<h3>[親鸞聖人正統伝]</h3>
<p>九歳の春、御出家なり。薙染の義は、厳父有範卿卒去の時、かねて御遺言なり。当年正月より、伯父三位へしきりに出塵の御のぞみあり。因て九歳の春、養和元年辛丑三月十五日、養父範綱卿御同道にて、洛陽粟田口青蓮院御門跡前大僧正慈円和尚の貴坊に御入室、即日出家したまう。戒師は、慈円和尚（時に二十七歳）御髪をば、権智房阿闍梨性範おろされけり。御名を範宴少納言と授らる。同年叡岳に登り登壇受戒也。ここに三千の大衆、これなん文殊の化身ならんと美談せり。慈円和尚は、天台六十二代の座主、博識明師にて、亦倭歌の達人なり。即慈鎮和尚のこと也。</p>
<h3>[正統伝後集]</h3>
<p>九歳、養和元年三月十五望、洛東青蓮院慈円僧正の室に入て、出家したまう。</p>
<h3>[親鸞聖人正明伝]</h3>
<p>九歳の春のここ御出家なり。是は先考有範卿終焉の時、かねて遺言あり。今年春の初より、十八公麿しきりに伯父三位へ薙染の請達ありければ、若狭守殿も今はちから及ずとて、青蓮院前大僧正慈円和尚の禅室にともない給て、御出家を遂らる。戒師は大僧正（時に二十七歳）、十八公麿（九歳）、権智房阿闍梨正範と申人ぞ除髪をつとめられける。御名を範宴少納言と授たまえり。于時養和元年三月十五日なり。</p>
<h3>[御伝鈔聞書]</h3>
<p>九歳の時まで俗ぞ。九歳の春の比慈鎮和尚の門院に入り、御かみを落し玉えり。御名範宴公、名は少納言のきみぞ。慈鎮付玉えり。天台家には惣じて公名を付ぞ。</p>
<h3>[親鸞聖人御因縁秘伝鈔]</h3>
<p>幼年のむかしは、青蓮院に御入室ありて、慈鎮和尚の門弟子たり。</p>
<h3>[親鸞聖人由来]</h3>
<p>あるとき松わか殿思召けるは、それにんげんういのならい、でんこうちょうろ、ばしょうほうまつとたとえたり。しょうじゅ千ねんのみどりもついに霜の後のつゆとなりぬ。よいにろうけつともて遊ぶいえどもあかつきはへつりのくもにかくる。かかるあだなる世の中に何に心をとめてか徒にあかしくらしなん、しかしただしゅっけとなり、ぶものぼだいをもとむらい、ことには末代のしゅじょうの、たやすくほとけになる道を尋出し、ほうを四かいにひろめんとて、御年九つの春、のりつなのきょうわかさ殿へ此由かくと御そしょう有。わかさのかみきこしめし、それは何より以てしゅしょう千万なる思いたちにて候、乍去御身は大内につかえ、くらいをすすみえいがを可極身の、何のふそくありてかとんせいあるべきぞ、とどまり給えと仰ける。松若殿はきこしめし、御じょうにては御座候え共、つたえきく、しゃくそんはじょうぼん大おうのおうじにて、おういをつかせ給いつつ、けつけいうんかくに、かしづかせ給うべき御身なれども、十九の御年おうじょうをしのび出たまい、たんとくせんによじのぼり、あららせんにんをしとたのみ、なんぎょうくぎょう十二年の大ぎょうを、おこないつとめ給い、三拾の御年終しょうがくなり給い、じゃかとはならせたまうなり。かかるためしもありあけの、やみの心に思いたちたるとうしんなれば、ひらに御ひとまたまわるべしと、てんだいさんにのぼりつつ　がくもんんをきわめしゅっけとぐべきなりと、いろいろ仰ければ、のりつなきこしめし、とまれかしとは思えども、出家くぼうの心ざしをしきりにとむるものならば、五ぎゃくにもまさるべし、さらば天大さんへ引くして、じちんかしょうのでしに仕らんとて、こしぐるまをかざりたて、上下はなめきゆゆしくして、天大さんえぞいそがるる。<br />
山にもなれば此由かくと仰ける。じちんかしょうきこしめし、のりつな殿か珍や、只今参事よのぎにあらず、是に候松若出家をのぞみ候により、貴坊の御弟子にけいやく仕らんと思い是まで参候なり。きょうこにおいてはわれわれになりかわり、世間しゅっせの御い見万事は奉頼。じちんきこしめし、其儀ならば今日はさいわい吉日にてある間、はやはや出家し給うべしとて、御かみそりをあて給う。比は人おう八十一代あんとくの御宇　永和元年かのとのうしの年、はなのさかりをそりおとしはや炭染に身をまとい、らくほつならせ給いける。しゅしょうなりける次第なり、じちん御らんじて、さらば名をつけ申さんとて、はんえんしょうなごんとつけ給う。</p>
</div>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>【02】父母との別れ</title>
		<link>http://www.jodoshinshu.org/biography/57.html</link>
		<comments>http://www.jodoshinshu.org/biography/57.html#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 04 Jun 2008 01:54:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://tulipk.sakura.ne.jp/jodoshinshu/?p=57</guid>
		<description><![CDATA[親鸞は幼名を松若丸、または松麿（字を分解すれば「十八公麻呂」）と名づけられました。
4歳で父を失い、母も8歳で亡くしたといわれています。
幼くして両親を失う、というこの体験が、後の出家の、大きな要因になった]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>親鸞は幼名を松若丸、または松麿（字を分解すれば「十八公麻呂」）と名づけられました。<br />
4歳で父を失い、母も8歳で亡くしたといわれています。<br />
幼くして両親を失う、というこの体験が、後の出家の、大きな要因になったのでしょう。<span id="more-57"></span></p>
<div class="serif">
<h3>[親鸞聖人正統伝]</h3>
<p>同歳（4歳）安元二年丙申五月十八日、御父有範卿卒去せらる。由之、十八公麻呂、御舎弟浅麻呂二人ともに、伯父若狭守範綱卿の養子となりたまえり。<br />
同年（8歳）五月二十一日、御母公吉光女、いささかの所労にて逝去したまう。</p>
<h3>[親鸞聖人正明伝]</h3>
<p>（安元2年＝1176）の夏、厳父后宮太夫逝去あるのあいだ、十八公麿舎弟朝麿ともに、伯父業吏部［若狭守範綱］の猶子となり、しばしば俗典をならい、聚蛍のみさおかつて懈なし。<br />
八歳五月の末のころ、御母堂貴光女かくれたまえり。いまだ四十にたらぬ御齢にて侍き。臨終のとき、範綱卿夫婦を呼まいらせて申されけるは、二人の幼児ども四歳にして先考におくれ、八歳にしてまた母をうしなう。世にためしなき単孤無頼の者にてはべるなり。</p></div>
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		<title>【01】誕生</title>
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		<pubDate>Wed, 04 Jun 2008 00:30:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[親鸞聖人伝]]></category>

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		<description><![CDATA[
京都市伏見区にある、日野誕生院は、親鸞聖人生誕の地、として有名です。
時は承安3年。西暦に直せば、1173年に当たります。
誕生日は5月21日（新暦）。旧暦では4月1日ともいわれます。
父は藤原氏の一族、日野有範。母の名]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/06/01tanjouin.jpg" rel="lightbox"><img class="alignright size-thumbnail wp-image-55" title="京都市伏見区　日野誕生院" src="http://www.jodoshinshu.org/wp-content/uploads/2008/06/01tanjouin-150x150.jpg" alt="" width="150" height="150" /></a><br />
京都市伏見区にある、日野誕生院は、親鸞聖人生誕の地、として有名です。</p>
<p>時は承安3年。西暦に直せば、1173年に当たります。<br />
誕生日は5月21日（新暦）。旧暦では4月1日ともいわれます。</p>
<p>父は藤原氏の一族、日野有範。母の名は吉光（＝貴光）と伝えられています。<br />
そしてこれから、親鸞90年の波瀾万丈の生涯が始まるのです。<br clear=all><span id="more-54"></span></p>
<div class="serif">
<h3>[親鸞聖人正統伝]</h3>
<p>御母吉光女、つねに菩提心ふかし。或夜、しきりに浮世の無常を観じ、西首して臥たまう。其夜の夢に西方より金色の光明かがやき来り、身を遶ること三匝にして、口中に入こと箭の如し。夢中に驚て西方に向たまへば、一の菩薩ましまし、長一尺許の五葉の松一本を持、これを授て言わく、吾は如意輪也。汝奇異の児を生ぜん。必ず是を以て名とすべしと云云。夢さめて、不思議の思をなし、明旦有範卿、禁裏より退出を待て此事を語たまう。有範卿、しばらく案じて曰く、昔し菅丞相は身上に松生と夢みて、横難に逢たまえり、然ども、君が夢は必ず祥瑞ならん。但し恨らくは奇子を生ずとも僧徒となりて、我家は継べからずと。是より始て、吉光女有身したまう。（略）</p>
<p>御誕生は、人皇八十代高倉院御宇承安三年癸巳四月朔日也。</p>
<h3>[正統伝後集]</h3>
<p>親鸞聖人、姓は藤原、大織冠鎌足十八世孫也。父は皇太后宮大進有範、母は源氏対馬守義親女子、其名吉光女。人皇八十代、高倉院承安三年癸巳四月朔誕生す。</p>
<h3>[親鸞聖人正明伝]</h3>
<p>釈親鸞聖人、姓は藤氏、大織冠鎌足の苗裔、勘解由相公有国五代の孫、皇太后宮大進有範卿の嫡男なり。母は源氏、八幡太郎義家の孫女貴光女と申き。常に意を菩提の道に帰せり。一宵、浮世の無常を観じ、ひとり西首して臥たまう。夜まさに半ならんとするに霊夢あり。忽に光明あって身をめぐること三匝、ついに口より入れり。貴光女おどろき、臥ながら光のきたる方所を見に、枕の西に一人あり。面容端厳にして、瓔珞のかざりあり。すなわち告てのたまわく、我は如意輪なり。汝に一男子を授べしと云云。貴光女是より有胎いませり。</p>
<p>承安三年夏のはじめ、誕生まします。御名を十八公麿ともうしき。</p>
<h3>[親鸞聖人御因縁秘伝鈔]</h3>
<p>釈親鸞聖人ともうすは、源空聖人面授相承の神足、一向真宗の元祖なり。世姓は藤氏、大織冠の苗裔、弼の宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大夫有範卿の御男なり。</p></div>
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