【05】磯長の夢告

 建久2年(1191)、親鸞19歳の時、大阪の磯長というところにあった聖徳太子廟に3日参籠したことが伝えられています。
(磯長村は昭和31年に合併して、太子町となりました)
 親鸞が聖徳太子を崇敬していたことは、よく知られていますが、このときも、「後生暗い心」の解決を求めて、三日三晩、祈り念じ続けたのでした。
 2日目の真夜中、聖徳太子が石戸を開いて現れ、次のような言葉を告げます。

「我が三尊は塵沙界を化す。日域は大乗相応の地なり。諦らかに聴け、諦らかに聴け、我が教令を。
 汝が命根は、まさに十余歳なるべし。命終わりて速やかに清浄土に入らん。善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を」

(阿弥陀仏は、すべての者を救わんと、力尽くされている。日本は、真実の仏法が花開く、ふさわしい所である。よく聴きなさい、よく聴きなさい、私の言うことを。そなたの命は、あと、十年なるぞ。命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう。よく信じなさい、深く信じなさい、真の菩薩を)

 19歳の親鸞が、ここで最も深刻に受けとめた所は、「おまえの命は、あと10年であろう」という予告であったことは、想像に難くありません。
 そして「命終わると同時に、清らかな世界に入るであろう」という夢告の意味も、全く理解できなかったでしょう。
 最後に「だからおまえは、今こそ本当の菩薩を心から信じなさい。深く信じなさい」と言われても、本当の菩薩とは誰なのか、どこにましますのか、親鸞の謎は深まる一方でした。
 これらの謎が一度に解けたのは、夢告から10年後でした。親鸞は29歳のとき、京都で法然と出会い、「阿弥陀仏の本願」を聞くようになります。その阿弥陀仏の本願によって絶対の幸福に救われた時、親鸞の疑問はすべて氷解したのです。
 またこの夢告によって親鸞は、法然のもとに入門後、「善信」と名乗るようになったともいわれています。

〈現在の聖徳太子廟〉(太子町観光情報)
http://www.town.taishi.osaka.jp/sightseeing/rekishi/rekishi05.html

[親鸞聖人正統伝]

十九歳初秋、慈円僧正に御いとまを乞て、和州法隆寺へ御参詣あり。覚運僧都の坊に、六十余日ましまし、因明の秘奥を研究したまえり。供奉の僧は、正全房侍従也、是人は養父範綱卿より御介錯に附られたる人也。
同年九月十二日、河州石川郡東条磯長聖徳太子の御廟へ参詣ましまし、十三日より十五日まで三日御参籠なり。第二の夜夢想を蒙りたまう。十五日正午に件の記を書さる。其記文曰、爰少仏子範宴、入胎五松の夢を思い、常に垂迹の利生を仰ぐ、今幸に御廟窟に詣でて、三日参籠懇念失巳矣、第二夜四更、夢の如く幻の如く、聖徳太子廟内より自ら石戸を発いて、光明赫然而窟中を照らし、別に三満月在して金赤の相を現し告勅して言く
  我三尊化塵沙界 日域大乗相応地
  諦聴諦聴我教令 汝命根応十余歳
  命終速入清浄土 善信善信真菩薩
于時、建久二年辛亥暮秋中旬第五日、午時初刻、記前夜告令畢、仏子範宴
此告命を得たまえども、深秘して口外なし。唯正全房ばかり、其記文を書たまうを見る。然るに汝命根応十余歳の文意さとし難く思召けり。範宴いま十九歳なれば、今年までの寿限と云ことにや、又今より十余歳との義にや、猶予ましますも断なり。其後二十九歳に至て、浄土真門に入たまう上にて、当初の告令に十余歳に至て清浄国土に入んとは、今此時を示されけるよと、日来の義蒙を晴たまいけり。三十三歳以後善信となのりたまうも、其本原この告命より興れり。

[親鸞聖人正明伝]

建久二年辛亥(十九歳)七月中旬の末に、法隆寺へ参詣のよしを僧正へ申たまいしかば、許されやがて立越て、西園院覚運僧都の坊に七旬ばかりましまして、因明の御学問あり。幸のついでなりとて、九月十日あまりに河内国磯長聖徳太子の霊廟へ御参詣ありてけり。十二日の夜より十五日に至まで、三日三夜こもりて、重重の御祈願あり。十四日の夜まのあたりに霊告まします。御自筆記文曰
爰仏子範宴、入胎五松の夢を思い、常に垂迹の利生を仰ぐ、今幸に御廟窟に詣でて、三日参籠懇念己を失る矣。第二夜四更夢の如く幻の如く聖徳太子廟内より自ら石戸を発いて、光明赫然而窟中を照らす。別に三満月在して金赤の相を現し告勅言
  我三尊化塵沙界 日域大乗相応地 諦聴諦聴我教令
  汝命根応十余歳 命終速入清浄土 善信善信真菩薩
于時建久二年辛亥暮秋中旬第五日午時、前夜の告令を記し畢んぬ、仏子範宴